◆◆◆リレーエッセイ《春》◆◆◆

2016年1月から、毎月支部員が書き継いでゆく「リレーエッセイ」をスタートさせました。どうぞご批評・ご意見などお寄せください。

 これまでの掲載作品

2017年

凧 青二「分かち合う心の文学を」

西尾裕子「反抗期」

青木陽子「届かなかった荷物」

2016年

石川 久「シャンソン?」

吉岡弘晴「自分の責任を痛感した翁長知事の法廷陳述」

芝田敏之「二月」

沢田信也「待って」(掌編小説)

本村映一「豊田市長選にかかわって」

本村映一「カラオケ喫茶で『なごり雪』を歌ったら

分かち合う心の文学を      凧 青二

 『ヒト(ホモサピエンス)』は他の動物が真似できない生まれながらの特性を持っています。それは「他人に食物を分かち与える」という生存の基本的特性です。

 親が子に餌を与えることは動物共有の行動ですが、親子や欲得関係でない他者に食糧を与える行為は『ヒト』にしか見られないと言われます。

 少ない食糧を前には、奪い合うか分け合うか、『ヒト』も他の動物と同じように奪い合うこともありますが、その反面分け合うことでより結束し、地球環境の激変などで飢えが迫った逆境でも『ヒト』は飲食料を分け合って危機を乗り越えて進化したのです。

 奪い合い争うときは威喝の「唸り声」だけで言葉は要りません。『ヒト』は分かち与える心を伝え、それへのお礼を表す言葉を身につけ、文字を創り出し、さらに文学はその一つとして発展してきました。

 名古屋民主文学は「分かち合う心ぐみ」と、その上で「出来るだけ個性を大切に」互いに磨き合う集まりです。

 少しでも自己表現したい思いを抱く仲間を待っています。

届かなかった荷物         青木陽子

 

 

 

昨日、私は朝から外出し、帰宅は夜遅くなった。風呂上りでくつろいでいた夫に、何か変わったことはなかったかと訊ねると、別に、と言いかけて、あっと声を出した。

 

「荷物が来ていない」

 

夕方四時から六時の間に来る筈の荷物がそう言えば届いてないと言う。携帯電話に郵便局員からかかった電話がそのまま録音されているというので、再生して聞いてみた。

 

はい、青木です、と夫の声。携帯電話では名前を言う必要なんかないと言っても、夫はいつも自宅の電話と同じようにそう名乗る。その次に若い男の声が聞こえてきた。

 

「四日市郵便局です。孝史さんですか?」

 

「はい」

 

「荷物を再配達したいのですが、何時でしたらご在宅ですか」

 

「この後はいます」

 

「では本日四時から六時の間に伺います」

 

明快だった。確かに四時から六時と言っている。だけど、え、四日市?

 

四日市は私の生まれ故郷で兄夫婦が住んでいる。無縁の土地ではない。だがこちらは名古屋なのに、四日市から配達の連絡が来るものだろうか。しかも〝再〟配達と言わなかったか?

 

不在票あったの? 夫に訊ねると、いや、と首を振る。狐につままれたような気持ちになった。もしかして詐欺? だが、この事態でどういう詐欺があり得るだろう。かかってきた電話番号にかけてみたい誘惑に駆られたが、こちらから動くこともないと思い直した。

 

そして一夜明けた今日、夫の携帯にまた電話があった。

 

いや、昨日私はその時間に在宅していました、と夫。モノは何ですか? え、筍? 

 

横で聞いていて、思わず顔がほころんだ。この時期の筍は美味しい。

 

送り主は? え、岐阜? 

 

いや、違います、ええタカシです、青木孝史。え、アカシ? 住所は? ああ、そういうことか。夫が笑い出した。すみません、うちは名古屋です。ハイハイ、どうもそういうことのようですね、では。

 

笑いながら夫は電話を切った。

 

何のことはない。岐阜の誰かが四日市の誰かへ筍を送った。その時相手先の電話番号を間違えて記入したらしいのだが、それがたまたま夫の携帯の番号と合致した。宛先がアカシさん。それを夫はタカシと聞き、先に青木と名乗っているから、下の名前を確認されたのだと思って、ハイと返事をした。電話をしてきたのが四日市郵便局で、これも縁のある土地だったというおまけつきで、勘違いに気づかせない要素がいくつも重なった。

 

自宅の電話なら局番で地域を限定できるけれど、携帯電話には四日市と名古屋の距離はない。人の声で繋がっても後ろに現実が見えないから、事態がはっきりするまで不気味さも漂って、ちらりと詐欺まで疑ってしまった。

 

ところで、何日も据え置かれた筍は、掘りたてのえぐみのない柔らかさを失い、いくらか固くなって四日市のアカシ某さんに届くことだろう。せっかく新鮮なものが送られたのだろうに気の毒なことと、こちらにはそもそも関係のないことだけれど、何かしら責任の一端があるような気にもなりながら、片方で、旬のそれを食べ損ねたようなちょっと口惜しい心持ちにも浸っていた。

 

《作者紹介》あおき・ようこ

1948年、三重県四日市市生まれ、

日本民主主義文学会常任幹事、
おもな著作「斑雪」「日曜日の空」「雪解け道」

反抗期             西尾裕子

 

 子どもにありがとうと言いましょう。物を取ってもらったら「ありがとう」、手伝ってもらったら「ありがとう」、ちょっとしたことでも「ありがとう」と声に出して言いましょう。ありがとうのシャワーの中で育てるのです。そうすれば子どもは、「ありがとう」と言うようになります。思春期の難しい年ごろになっても、ありがとうと言ってくれます。

  

 と、十年前に新聞に投書して掲載されました。

 偉そうに。

 

 私には子どもが四人います。四人目の子は今中学三年ですが、ありがとうと言いません。おはようも、おやすみも言いません。いただきますもごちそうさまも言いません。いってきますもただいまも言いません。

 

 反抗期です。

 徹底的に親を避けています。私が嫌いです。

 

 同じように育てたつもりでした。上の三人は比較的穏やかで、ありがとうもおはようも、おやすみもいただきますもごちそうさまもいってきますもただいまも言っていました。この子だけ反抗期がこんなにきついです。

 

 どうしてだろう。個人差の問題なのか、持って生まれた性格なのか。

それとも。

 

実は、四人目の子は勉強が苦手でした。中学のテストでびっくりするような点をとってきて、私は我を失いました。英語が特に悪かったので、私は彼に英語の勉強をさせました。勉強しているか毎日監視するようになりました。できないと、なんでこれができないのと言いました。悪い点数に大きなため息をつきました。テストのたびに本人の前で頭をかかえました。

 

 それで私が嫌いになったのでしょうか。嫌いな人に、あいさつなんかしてやるもんかと思っているのでしょうか。

 

 彼は今日も黙って家を出ていきました。

 

 ありがとうのシャワー。

 

 何がありがとうのシャワーだか。

 

《作者紹介》

にしお・ゆうこ 名古屋市在住 名古屋民主文学読者会員

カラオケ喫茶で「なごり雪」を歌ったら  本村映一

 例によって私は月2回ほど、「赤旗」読者が経営するカラオケ喫茶に行く。
3月になったある日、「なごり雪」を気分よく歌った。伊勢正三さんの作詞・作曲、歌手はイルカさんの曲である。イルカさんはこの曲で40年以上も歌手を続けていると言っても過言ではない。毎年の"卒業(送別)ソング"のトップ10の常連になっているほどだ。
歌い終わったら時々一緒になるアラ・セブンティーと思われる3人の女性から「本村さん」と声がかかった。褒めてくれるのかと思ったら、違った。
「私らねえ、この曲を聴くと悲しくなるのよ」
「そうですか、みなさん、よほど悲しい恋があったのですね」
「そうじゃあないの、歌詞がいかんの!」
「……?」
「ほら、去年よりずっときれいになった、が何回も出てくるでしょう。そこがこたえるのよ」
「だってね、私らは去年よりきれいになるってことは絶対ないから……」
 私はあわてて「いや、みなさん今でも十分美しいですよ」と言い、歯が浮いた。
「私らがいないときに歌ってね」でその会話は終わった。
 あとで歌詞をよく見ると、「♪……いま春が来て 君はきれいになった 去年よりずっときれいになった♪」が3回ある。おまけに最後は「♪去年よりずっときれいになった♪」をさらに2回繰り返して終る。
 同席の顔ぶれを見て選曲するようにしないといかんかなあと思った。コブクロ、ゆず、福山雅治、秦基博ら比較的若い人向けの歌なら、年配者はあまり関心がないので当たり障りがないかも知れない、覚えるのが大変だけど。

 豊田市長選にかかわって       本村映一

 二月の豊田市長選で、私は田中かつみ候補を擁立してたたかった「住みよい豊田を創る会」の世話人・候補者擁立委員の一人であった。候補者の擁立では、こうした勝ち目の少ない首長選挙であろうと党公認の議員選挙であろうと様々な苦労がともなう。対象となる当人が最も苦労することは言うまでもない。

 

  結果は、当選した現職十三万余票に対して、田中候補一九六〇五票(得票率約一三%)で敗れた。年末ぎりぎりの出馬表明、短期間の準備と運動の中で、私たちは健闘と評価した。何より人口県内二番目の四十二万都市で二期続けて無投票となる事態を打破した。争点や解決が迫られている課題は山積していた。市民の税金の使い途、市長と市民の向き合い方、市民負担が増すばかりの市政の中で、国や大企業にどうものを言うかなど、市政に一石を投じたと自負している。それを有権者に伝えきれなかったという「会」と共産党の意気込み・力不足は自覚している。

 

  ただ地元紙などで「争点なき市長選」とか「共産系候補の前々回より九千余得票減が投票率五〇%を割った大きな理由」、「共産系市長選の失敗」という見方は的外れである。直近の国政選挙(一昨年十二月の総選挙)での政党の基礎(比例)票で見ると、現職市長与党(自民・民主・公明)の合計は十六万一千余、市長選得票はこれより二万九千票減らした。田中陣営(共産・社民)は一万六千余で市長選の方が三千余票多い。低投票率の責任が田中陣営にあるとは暴論であり、少なくとも双方が考えるべきことだ。

 

政策面では「選挙公報」に両候補の違いが鮮明に出た。しかし、「公報」が投票日前日に配られた地域やついに配られなかった地域もあるとの報告もある。トヨタ系列の巨大労組は期日前投票を指示し「告示から三日間で期日前投票、二月四日(投票日三日前)までに投票済証の提出」を求めた。これ自身が投票の自由を侵害するものだ。今回の期日前投票者は五万四千人(有効投票の約三五%!)、その多くは「公報」を目にしないまま投票したと思われる。期日前投票が増加する今、選挙管理委員会の対応も問われている。

 

  マスコミ報道の中には「(豊田市長選では)議論する雰囲気にも乏しく、……公開討論会すら、豊田市では一切開かれてない」(中日)との指摘もある。青年会議所が公開討論会を計画したが圧力があったらしく中止になる一幕もあった。

 

   五人ほどに及んだ候補者擁立のための要請・説得には、それぞれの生き様や事情を垣間見る思いが伴う。それを通して自らの生き方まで問われる瞬間さえもある。七十歳にして決然と候補者を引き受けていただいた田中勝美氏にはただただ感謝するしかない。

〈作者紹介もとむら・えいいち)

 

1940年長崎市生れ。5歳で原爆体験。父の賭博狂から18歳で父母離婚。2年間のアルバイト生活後大学へ。豊田市内で9年9カ月中学校(数学)教師。その後33年間共産党専従役員。2010年より日本民主主義文学会に参加。「名古屋民主文学」95号で「党専従者―序章」で初の小説。以後、107号まで毎号(13作品)に発表。

《小説》待って          沢田信也

  里帰りすると父がお土産を持たしてくれる 。愛知県知多地方の銘菓を探しているようだが、どうも目ぼしいものが無いといっていた。母が十年前に他界してから、里の家守のように独りで、頑張っている。三人姉妹は、盆と正月そして春祭りに帰郷し、父はそっちのけで話しまくってくる。

  私は末っ子で、遠く和歌山に嫁いできたから、父の健康監視は姉に任せている。父が言うは、「姉が来ると看護師の娘で、頭のてっぺんから足の先まで観察する、俺はまだそれほど老いていない」と八十歳の空元気を出す。

  今年の正月のお土産には、マロングラッセが用意してあった。私は栗が大好きで、と てもうれしいお菓子だ。和歌山に帰って子ども三人とどうやって分けるか相談。菓子箱には十五個入っていたから夫婦と子どもで五人、一人三個ずっとすんなりとまった。

  それで、済めばよかったのだが、母屋から 義父が離れに住んでいる私たちのところにやってきた。義父はものすごい働き者で甘いものが大好きだ。それでときどき私たちのところに来てお菓子をつまんでいく。

 「好ちゃん、腹減った何かない」

 そういいながら菓子箱のふたを開けるや否や、マロングラッセをぽいと口の中に放り 込んだ。

あ、あ、あっ」

 私と三人の子どもは、(どうしよどうしよ、お義父さんが食べてしまう。)おろおろしながら見守っていると、義父はひょいと私たちの顔を見た。四人があまりにも真剣に見つめているので一瞬手がとまった、 が。

旨いやないか」

  といいながら、二つ目に手が伸びた。私も 子どももハラハラドキドキ、お義父さん止めてと、息を止めて願っている、その眼の鋭いこと。三つ目に手を伸ばそうした義父はその眼を見て、思わず手を引っ込めてしまった。

 「好ちゃん美味しごちそうん」

 そういながら義父が去ったあと、四人は被害が軽かったことに安どして、一斉に息を吐いた。

 三つ減って十三個、さてそれをどう分ける か。子どもたちは、お母さんが不注意にテ ―ブルの上に投げ出しておくから食べられたんや、お母さんの責任だからその分二つ減らすという。とんでもないこんな美味し いお菓子を一つにされてはたまらない、猛烈に抵抗した結果、夫婦は二個ずつ子どもは三個ということに落ち着いた。

  ところが私が夫の分を一つ食べてしまったから、夫のマロングラッセは箱の隅に一個だけ残っていた。

 

《作者紹介》さわだ・のぶや

 

日本民主主義文学会会員、名古屋支部運営委員、

元常滑市議会議員

  二月              芝田敏之

「あーまた二月とゆ月がきた ほんとうにこの二月とゆ月はいやな月」
 獄中の息子に読んでもらうために覚えたという多喜二の母、小林セキさんが書いた文字だ。多喜二の死は1933年2月20日である。

 

 多喜二より三つ若い父は、わたしが小学3年の2月16日(1957年)に工場で倒れ、51歳で他界した。そのため2月になるたびにセキさんと同様な感慨を持つ。
 「絵描きさ」と呼ばれていた父は。陶器の半製品に、釉薬で絵や模様を描いていた。朝7時半から夕方6時まで。休日は1日と15日の月2回。
 死の前日2月15日は休日だった。父は食糧難の時代に借りて開墾した山の畑に行き、春を迎える準備をしたらしい。翌16日は寒い朝だった。昼休み、工場の仲間と達磨ストーブを囲み、母のつくった弁当をきれいに食べたそうだ。その直後、父は倒れた。あとから思えば、血圧が高い父が、寒い所からいきなりストーブに近づくのは危険なことであった。脳溢血を招いたのだった。
 学校から帰ると、祖母が家の障子を明け放し、箒で掃いていた。
「なんで親より子が先に逝くんじや……。親不孝め」
 ぼそっと言った。
 カバンを置いて父の工場に行くと、動かしてはいけない、という医師の指示で、莚の上に寝かされ、いびきをかいていた。いびきは高くなったり低くなったり……。夕刻七時ごろ、いびきが止まった。
 医師がきて「ご臨終です」と告げると、父を囲んでいた大人たちのすすり泣きが起きた。51歳だった。
 父が死んだことはわかっても、その意味の重さがわからない。大人が泣くのを見て悲しくなって泣いた。
 父は戸板に寝かされ、男たちの肩に担がれた。
 外に出ると、雪がちらちらしていた。
「おい、こう(父の名前=金へんに栄と書き「こう」と読んだ)さの禿げ頭に雪がかかるから帽子を被せてやろう」
 父は工場にあった野球帽を被せてもらった。
 
 中学生のとき、「父の思い出」という題でつぎのような作文を書いた。
 やかん頭の父にも側頭部に弱々しい白髪があった。畳の上で新聞紙を広げ、その上に四つん這いで頭を突き出し、手動バリカンで祖母に刈ってもらっていた。
 そんな内容だったと思う。国語のT先生は、「情景がありありと浮かんでくるよい作文だ」とたいそう褒めてくれた。
 ――文章が書けるかもしれない……
 そんな自信が芽生えたのは、このときだった。

*作者紹介*しばた・としゆき

1947年3月岐阜県生まれ。1993年日本民主主義文学同盟(当時)に加入。1995年「小豆色の電車」(『民主文学』1995年4月号)が認められ、佐藤貴美子・河田昭氏(いずれも故人)の推薦で同盟員(会員)に。最新作は「ぼくの父は」(『民主文学』2015年7月号)。現在、あいち赤旗文化セミナー「文章教室」担当

自分の責任を痛感した翁長知事の法廷陳述

         人吉(熊本)にて 吉岡 弘晴

 翁長沖縄県知事の「代執行訴訟」の陳述全文を読みました。
  今までも沖縄に関する文献は、わりと読んできたつもりでしたが、翁長知事の陳述を読んで認識を新たにしたことが幾つかありました。

 なかでも私の胸に一番応えたのは次の陳述でした。

 「復帰後も国土面積の0.6パーセントに在日米軍専用施設の73.8パーセントの基地があるという状況に変りがありません」

 この点は、広く知られていることですが、続けて、「それは米軍施政権下の1950年代に日本本土に配備されていた海兵隊が、反対運動の高まりにより、沖縄に配置された結果、沖縄の基地は拡充され、今につながっているのです」と述べられていました。 

 当時の沖縄は、事実上米軍の占領下に置かれていましたから本土からどんどん沖縄に移設してしまったのです。ここに「沖縄問題の原点がある」と翁長知事は指摘しています。

 私は、1950年代に小牧基地撤去のたたかいに参加したことを思い出しました。しかし、このたたかいの結果についてまでは考えが及んでいませんでした。そして私は、自分にも責任があると強く感じました。

 

 オキナワを見捨ててならぬ 同胞(はらから)よ

 

 日本全土に たたかいの輪を

作者紹介

吉岡 弘晴(よしおか・ひろはる)

1936年3月25日、北朝鮮・興南(フンナム)で生まれる。敗戦とともに熊本県人吉に。15歳で名古屋に出て就職し印刷工など。18歳から名古屋市交通局で市電の車掌、地下鉄の駅員など65歳まで。名古屋在住は63年間。現在、故郷の熊本県人吉市でひとり暮らす。

『名古屋民主文学』読者会員。

 シャンソン?

                 石川 久

 雨が降っていた。 

つぶれそう一座の芝居を観るため、中味鋺からバスに乗った。バスと地下鉄に乗っている間に、『民主文学』を読むつもりでショルダーカバンに入れていた。ところが、バスの中でM氏の顔を見て、通り過ぎるわけにも行かなくなり、声をかけてしまった。

  普段のM氏は無精ひげをはやし、地味な服装であった。

 今日のM氏は違っていた。白髪の目立つ髪をきれいにわけ、ひげを剃っていた。ノーネクタイであったがワイシャツにスーツで、折り目がついたズボンをはいていた。

「どこへ行くんですか」

「いゃあ、シャンソンに誘われて」

 M氏はにやけた顔になった。それで、私は、

「かわいい女の人でしょう」と誘いをかけた。

 にやけた顔がさらにくだけて、

「丁寧な案内状をもらったので」

 M氏はスーツの胸ポケットから一枚の紙を取り出し、私の目の前に広げた。A4の紙には今日の案内が印刷してあった。それに手書きの地図と〈ご参加をお待ちしています〉と添え書きがきれいな文字で書いてあった。

「で、しょう。こうなると行かなくてはならんのだ」

 M氏のトーンはあがった。

 M氏は七十に手が届く年齢で、市営住宅で猫と一緒に暮らしていた。奥さんを十年前になくし、娘が少しはなれたところに住んでいた。若い頃には労働組合の役員をしていたというが、ずいぶん気ままな性格で、あちこちで衝突していたと聞いていた。

「シャンソン? 」

  私が疑問をはさむと、

 「習っている、半年前から」

 「シャンソンを」

  半分からかうような口調で私がいうと、

 「若いときは名青で歌っていた。これでも声がいいといわれていた」

 M氏は自慢するようにいった。  

作者紹介

石川 久(いしかわ・ひさし)
1949年1月名古屋市に生まれる 現在 日本民主主義文学会準会員
   名古屋支部事務局長    愛知文化団体連絡会議事務局長
   名古屋市北区 在住 主な作品「雷雨」「妻と私そしてこどもたち」