◆◆◆リレーエッセイ《秋》◆◆◆

秋のエッセイに かなれ佳織「競争」、山形敦子「『体育の日』」から、『スポーツの日』へ」、松本 凜「我が家のペット」を追加しました。2019.11.22

競争             かなれ佳織

 

 夏、大雨が続くといやぁな気分になる。体のどこかが痛くなるとか、洗濯ができないとか、水溜まりができてボウフラが涌くとか、そういう理由ではない。雨、と聞いてまっ先に浮かぶのは、草だ。

 

ただでさえ夏は雑草が茂るが、大雨のあとは、ここぞというぐらい勢いを増し、伸びる。木も、青々とした葉をいっそう茂らせ、ぐんぐん四方に枝を伸ばす。少しの雨でもからからの土は生きかえるのに、大雨ときたら草も木も嬉々として水をたくわえ、伸びる。

 

そうすると、庭はみるみるうちに、ジャングル化する。こまめに草取りをすればいいと思う。しかし朝にしても昼下がりにしても、暑い夏だ。帽子、長袖、軍手、首タオル、靴下を身につけ、さらに「服の上からかける」蚊避けスプレーをまいて装備万端整え、草刈り機を物置から引っ張りだし、その肩ベルトを装着するころには、もうぐったりだ。

 

ただ、やるぞ、と心を決め、草を刈っていき、粉砕された草が地面に重なり、ジャングル化のおかげで隠れていた芝が見えてくると、テンションは上り調子。汗を拭い拭い、隅っこの方もやっちゃおう、といい気になる。やがて庭が前より少し広くなる。そりゃそうだ、確かに前より空間が広がっているのだから。そんなに広くはない庭で、準備を入れたった小一時間のことだが、やり終えるとああ気持ちいい、すっきりした、と思う。だがそれは一瞬。また、じきに伸びる。

 

翌日から二、三日は腕が上がらない。どこということはないが、体の節々が痛い。晩夏などはヌスビトハギの種子が足元から膝までびっしりくっつき、それを衣服から引き剥がすのに時間も根気も要る。そんなこんなで草刈りをこまめにやらない。

 

亡くなった義父が「草取りと草が伸びるのとは競争だでな」と言ったが、わたしはとっくに競争から離脱した。

 

思いだすのは、しょっちゅう、鎌を手にうちに草取りに来ていた義母の姿だ。義母は年中、畑仕事に精をだし、玉葱、じゃが芋、ネギ、人参などを配っていた。土は作物を育てるのに欠かせない。雑草との「競争」は争いでなく、土と仲良くなるためだったと思う。

 

頭からつま先まで昔ながらのプロ仕様だった、義母の草取りは、実に颯爽としていてかっこよかった。今は出歩けなくなった九十四歳のおばあちゃん。わたしの草刈りを見たら、やさしい目を細めて笑うんだろうなぁ。

「体育の日」から、「スポーツの日」へ 山形敦子

2000年以前は、体育の日は前回東京五輪が開催された、
1964年10月10日にちなんで制定された。
2000年以降は、10月の第二月曜日が祝日になった。
それが、今回の五輪で体育の日がスポーツの日になり、
日も変更されるらしい。

さて、体育と言えば、集団行動、集団行進、全員でダンス、
組体操、マラソン、水泳ととても、根性主義で全体が統一されていないと、
怒声がとんできた。
水泳は25メートルできないと、夏休み補習があった。
しかも、部活は強制なので、大多数の生徒は何らかの種目はできるようになる。
この強制部活は他の国ではあまり例を見ず、中国や韓国の生徒に聞くと、
選手志望者以外はスポーツは何もしないということで、勉学中心で、
入部するにしても、文化部が多いらしい。なので、特に女性は運動が苦手な人が
多いようである。水泳も大学で選択した人だけするようである。
このように、体育ときくと、訓練するものと捉えて、なんだか強制
されているという先入観がある。
そして、にこにこ笑って授業を受けようものなら、
「にやにやして授業を受けるな」と怒られた。

けれども、スポーツとはもっと高度な文化的活動で、
楽しみながら勝つことを知って行くという理想を追求して行くことが
できるような気がする。
今まで出来なかった課題を修正しながらこなしていったり、
仲間を見つけて、励ましあって勝つという楽しみがある。
私は水泳をしていたけれど、いつも体調、体型、施設や自分の
フォームを確認しながら泳ぐので、非常に楽しい。
体育の日からスポーツの日に形式的に変更するのではなく、
実態を伴った変更だといいなあと思う、
スポーツの秋だ。

我が家のペット                                         松本  凜

 

うちの猫は、ドアノブを回して部屋のドアを開けてしまいます。両足で立って体を伸ばしてドアノブをつかむと、下の方に回しながらひっぱり、開けてしまうのです。始めこそ「ミュー、すごーい」と喜んでいたのですが、実際これは大迷惑。冬、暖房をつけていても勝手に開けて出ていってしまうので、いちいち閉めにいかなくてはなりません。開けるのはできても閉めるのはできないものですから。

最近この、「開けて出ていく」がいやにひんぱんになってきました。用もないのに自分でドアを開けて出ていく。私が閉めると、すぐまたドアを開けて入ってくる。それを何度もやるのです。これは遊んでるな。こたつに入っている私が、あーとか言いながらいちいち立ち上がってドアを閉めるのを、面白がっているに違いありません。

ドア、開けたぞ。ほら、閉めな。あ、閉めたな。じゃ、また開けてやろう。あ、また閉めた。おもしろいなあ。僕が開けると、絶対閉めに来る。これ、おもしろいなあー。

 

きっとそう思っています。
 こら、 いい加減にせんかい!

鬼籍の人(掌編小説)        松山薪子

 蕗子は五年ぶりに高校時代の同窓会に参加した。密かにある人の姿を捜した。出席者はわずか二十名足らずなのに、その人の姿はなかった。名簿の鬼籍の欄にその名はあった。

 八十五歳にもなれば何の不思議もないのに、自分が知らなかったことに大きな衝撃を受けた。

「ねえ、山ちゃんって何時亡くなったの」

「ふう子、やっぱり知らなかったのね。私、何回も電話したの。でもいつも留守だった。この前の同窓会のちょっと前よ」

 と幹事の志津子が教えてくれた。その頃蕗子は変形性股関節の手術のために、一年近く入院していた。

 山ちゃんは幼い頃に母を亡くし、その後父親は再婚したが、どうしても新しい母親に馴染めず、学校の階段の下のわずかな三角形の隙き間に布団を持込み巣を作っていた。

 学校側も呑気なもので、そんな彼を咎める教師は一人もいなかった。

 蕗子も山ちゃんも音楽が好きだったので、教育大学(当時は学芸大学)の音楽科へ進学した。

 卒業してからは山ちゃんは名古屋市の中心にある大きな小学校に勤務し、蕗子は片田舎の小さな中学校に勤務した。山ちゃんは又、階段の下に巣を作り出したという噂を聞いた。

 蕗子は時時山ちゃんの小学校へ行った。

 そこにはいろいろな教育器機が揃っていた。田舎の中学校とは大違いだ。蕗子はそれを自分の学校に持ち込み、少しずつ教育器機を増やしていった。

 五年経った。二人の間は平行線を辿るばかりで一向に進展がなかった。

 山ちゃんの勤務する小学校の近くに住む志津子は業を煮やして

「ふう子、山ちゃんならいいわね。私、話つけて来る」

 とまで言った。

 翌日、志津子を訪ねた。脚が震えて何回も躓きそうになった。

 志津子は薄暗い部屋にぽつんと座っていた。

「ああ、ふう子」

 志津子は渋い顔で明かりを点した。

「ふう子、学校を辞められる?」

「それは出来ないわ」

 と蕗子はきっぱりと応えた。

 母からは「女に学問入らぬ」と反対され、親戚の伯父からは〝目が上ばかり見とる蛙娘〟と罵られながらも、アルバイトと奨学金でやっと手に入れた教員免許状だ。それをたった五年で捨てられない。それに蕗子は学校が好きだ。生徒の前に立っている時に生き甲斐を感じていた。

「山ちゃんは、明りのついている家に帰りたいんだって、でもふう子は学校こそがふさわしい女性だもの・・・」

 蕗子は黙って帰途についた。

 

 山ちゃんは鬼籍に入ってしまったけれど、私のことを考えてくれた人だ。蕗子はほっこりとした思いで名簿を見直した。

《作者紹介》まつやま・しんこ

日本民主主義文学会会員、同名古屋支部員

中国の大学にて、日本語教師を長年勤めた。

「幻の本」ついに発行    木曽 ひかる

                           1960年6月に安保反対闘争が頂点に達しました。高校へ入学してまもないわたしは、樺美智子さんの死に衝撃を受けました。その余韻がまだくすぶる10月12日午後、浅沼稲次郎日本社会党委員長が演説中に右翼の山口二矢によって刺殺される事件が起きました。まがりなりにも民主主義国といわれる日本でこのようなことがあってよいのか、時代が逆行していくのではと不安な思いにかられました。

山口は17歳。わたしより一歳年上の少年が起こしたその原因や理由を詳しく知りたいと思いましたが、11月2日に自死して、詳細は不明のままでした。

そんな時に、大江健三郎が山口をモデルに、「文學界」1961年1月号に「セブンティーン」を、同年2月号に「政治少年死す セブンティーン第2部」を書き、国語教師に借りて読みました。大江の小説は「飼育」、「芽むしり仔撃ち」など鮮烈で、それまでのいわゆる文豪のものと違ってひたひたと心の中に入り込み、これぞ「われらの時代」を代表する作家と感じていました。

2作とも少年の屈折した思いなどがよく描かれていると思いました。しかし、右翼の抗議で「政治少年~」は書籍化されず、以後、再読できずに残念な思いをしてきましたが、来年、講談社から発行される大江の新しい全集に収録されることが決定しました。言論の自由から言っても喜ばしいことです。

今度読む時は、若い時と違ってどんな感想を抱くのでしょうか。発行を大変楽しみにしています。 

<作者紹介>きそ ひかる

1944年生まれ 

日本民主主義文学会会員

 

主な作品 「月明りの公園で」(2015年第12回『民主文学』新人賞受賞)

続けたいロシア語        空猫 時也

 昨年の寒い冬の日、私は事故で足に大けがを負いました。病棟のベッドで、失意の嵐が何度も頭の中を過りました。

 そんな時、母親が私にお見舞いの品で、NHKのラジオ講座テキスト「毎日ロシア語」を持ってきてくれました。

「貴方は語学が得意だし、英語はだれでも話せるから別の言語で、道を切り開いたら?」と。確かに私は、今までと違うことにチャレンジしたかったのです。

 それからの日々、入院中は病室のベッドで、退院後は在宅でロシア語の勉強に励みました。

 偶然、自宅から地下鉄二区間の距離に「日本ユーラシア協会」という建物があり、そこでは在日ロシア人の講師がロシア語の教鞭を執っていました。

 私は日本ユーラシア協会に入会し、サンクトペテルブルク文化大学出身のT先生と出会いました。彼女は親切で朗らか、丁寧な物腰の尊敬できる先生です。T先生とのふれあいの中でロシア語を吸収していった私は、試しに毎日ロシア語の読者係コーナーに絵手紙を出してみました。「私たちが世界を勉強すれば、世界は答えてくれるでしょう」とロシア語で書き、挿絵も入れました。すると、NHKの編集部は今夏の冊子に掲載してくれました。

 日本とロシアの間には、未だ親交条約が締結されておらず、北方領土問題など両国の関係は良好とは言えません。それでも、国家の構成員は紛れもなく「国民」という個人です。時間が掛かっても、私は日本とユーラシアを結ぶ懸け橋のひとりになりたいと願います。だから、これからもロシア語の勉強を続けます。相手の心を知る為には、相手の言葉を知ることが有意だという格言があります。

「私の言語の限界が、私の世界の限界だ」-ウィトゲンシュタイン

《作者紹介》そらねこ・ときや

「日本民主主義文学会名古屋支部支部員

孫の初恋?           水野 敬美

 

 孫が保育園に通っている。女の子である。

 

 少しずつ言葉がではじめたと、思っていたら二歳の誕生日をむかえると、簡単な会話ができるようになってきた。

 

 会話は、気持ちをこめることからはじまる。

 

まず、いや、いやが、はじまった。

 

おはよう、こんにちは、と挨拶のできるようにと、周囲は心を配っているのに、いやいや、ばかり。じぶんの主張からはじまった。

 

まあ、第一反抗期か? と見守ることにしていたら、保育園の男性保育士からの話を聞いて、おどろいた。

 

その日、孫はお昼寝をいやいやといい、ふとんの中にはいらない。若い男性保育士は他の子を、寝かしつけるのに忙しい。本人の要求どおり、そのまま部屋で少しあそばせていた。三十分程経ち、半分くらいの子どもが眠って静かになったころ、孫も眠くなって、保育士に、両手を広げて「だっこ!」の要求をした。

 

保育士は、他の子を寝かしつけているので、ひとりで寝るように、と目で布団の方へ合図をおくった。

 

いやいやいや、と大きく首をふる。

 

泣かれては困るので、保育士はあわててその場から移動し、孫のところへきて抱いて布団にいれた。そしてさっきの続きの子の場へもどろうとすると、

 

「だめ! とんとんして」と、自分の胸をたたいた、という。

 

その男性保育者は、「まいったあ」と、思いながらいわれるまま、とんとんと孫の胸をやさしくたたくと、すやすや、すぐ寝付いていった、という。

 

苦笑まじりの保育士の話に、私もにが笑い。

 

確かに、自己主張のできる子にしたいと、育ててきたつもりだけれど・・・。

 

そして思った。

 

ことばはなんとすばらしいか、と。しかしこれはわがままそのものではないか。まるで家と同じである。

 

集団の中での遠慮を身につけさせるには、どうしたらいいのだろうか。そんなことを悩みながら、その保育士にふたつも、みっつも頭を下げた婆ちゃんである。

 

仕事から帰った娘に話すと、うなずきながら、孫はその保育士がお気に入りだと弾んだ声でいう。

 

「大好きな先生だもん、初恋かもね!」

 

と、のんきな答え。

 

婆ちゃんの悩みが二重に増えたのだった。

《作者紹介》

水野 敬美(みずの・たかみ)

1943年、名古屋市生まれ

日本民主主義文学会 会員

主な作品 「ゆたか物語」(共著)

「てのひら作品集」ほか

大河ドラマ「真田丸」        新谷 弾

 

 今年のNHK大河ドラマ「真田丸」が面白い。真田信繁(幸村)を主人公に描かれた戦国末期の物語。何度も取り上げられた時代だが、そこは三谷幸喜脚本。飽きさせない。例えば、豊臣秀吉の甥・関白秀次の「謀反事件」を実は「うつ病による自死」と描いたのには驚いた(そういう説もあるらしい)。こういう具合に三谷氏の新解釈で手あかのついた題材がどう展開するか分からず、つい見入ってしまう。久し振りに見ごたえのある大河ドラマだ。

 

 魅力はもちろんそれだけではない。人物が深く描かれている。単純ではない。嫌な奴かと思ったらいい所もある。堅物かと思ったら笑わせてくれる時もある。考えてみれば、人間だから色々な面があるのは当たり前かもしれない。家族同志のやり取りもよくあり、「ファミリードラマ」としても楽しい。

 

 その中で、私が一押しなのが徳川家康。前半はとにかく笑わせてくれた。すぐ弱音を吐く。愚痴をこぼす。気が小さい。ストレスがたまると爪をかむ癖があるらしく「かまない!」と側室に叱られる。家臣たちに励まされなんとかがんばっているが、どこか可笑しい。「神君・家康公」と尊敬するファンからはNHKに抗議が随分来たらしいが、私は過去の家康の中では一番好きだ。演ずる内野聖陽氏もこの家康には苦笑したらしいが、これから段々天下取りに向けて主人公の前に立ちはだかる強敵になっていくようだ。

    そして、私が今回の家康を好きなのは、ふと見せる優しさだ。宿敵秀吉の死の知らせにそっと手を合わせる。その瀕死の秀吉に徳川に都合よい遺言状を家臣たちが無理矢理書き直させようとする場面では一瞬だが痛ましい表情になる。人として共感できる優しさなのだ。歴史上の人物だが、人間としての基本の思いは我々と同じだと思わせる。そこが感情移入できるのかもしれない。ドラマや小説等受け手に共感させることはその作品世界に引き込ませる大事な要因だ。

 

「真田丸」は物書きとして参考になる所が沢山あると思う。これだけ大勢の登場人物、長編を描くのはさすがに私には無理だが、毎回勉強になる。

    物語はいよいよクライマックス。関ケ原の戦いを経て、大阪の陣へと向かう。魅力的な登場人物たちを最後までどう描き切るか。目が離せない。

 

未見の方はぜひご覧あれ。

 

《作者紹介》あらたに・だん

「名古屋民主文学」編集委員