◆ ◆ ◆ リレーエッセイ(冬) ◆ ◆ ◆
思えば遠くへ来たもんだ 島田たろう
俺はまだまだ若い、他人が言うほど老けてはいないと見栄を張り、そう自分に言い聞かせて生きて来たが、それも危うくなってきた。
朝、四時半になると決まって愛犬に起こされ、まだ明けやらぬ中、農道や池の周りのいつものコースを愛犬に引きずり回され、四十分ほどの散歩を済ませ、フーフー言って家にたどり着く。朝食を終えて新聞に目を通す。
さて、何を書くか、とパソコンに向かえど何も思い浮かばない。ボケーッとしていると突然、「思えば遠くへ来たもんだ、故郷離れて~」という歌詞がメロデイーに乗って無意識に口から出た。誰が歌っていたのかも思い出せない。おそらく、今の自分の心境から出て来たのだろうと勝手に納得する。
思えば、三交替勤務で、鉄粉が舞う職場環境の悪い高熱重筋職場で働いていた。「鉄ちゃんマンコロ」(鉄鋼労働者は満期を迎えるとコロッと逝く)と呼ばれていた時代だった。
他人から嘲笑されたが、「俺は年金を貰うまでは死ねん。俺の人生六十五歳」と宣言したのが四十代半ばだった。
その目標を達した時、「我が人生に悔いなし」で、後の人生に何の期待も望もなかった。
生かされていることに感謝しながら一日、一日を生きているうちに数年が過ぎた。
好きだった山登りも、車で遠くまで出かける気力も湧かない。なら、家に引きこもって、戦争に憧れ、高齢者を姥捨て山に追いやろうとしている男に一矢酬いる物を書こうと思うのだが、なかなかそうもいかない。
予定になかったこの人生いかに使うべきか、あれこれ思案中である。
《作者紹介》しまだ・たろう
日本民主主義文学会 会員、主な著作は「原発の空の下」(戯曲)
御嶽山 島田 たろう
木曽の御嶽山が噴火したのは、二〇一四年九月二十七日だった。この噴火によって、六十数名の登山者が犠牲となった。
あの大惨事から二年が過ぎた。頂上の山小屋の屋根が、黒い灰を被ったままの写真を見ていると、涙が浮かんでくる。
もう三十年ほど前になるが、私の勤める会社の保養所が、木曽駒高原の静かな白樺林の中にひっそりと建っていた。近くを流れる清流に足を浸して、小鳥のさえずりを聞いていると、精神も肉体も癒される思いだった。
我が家では、三人の子どもが夏休みに入ると、その山荘に宿泊し、全員で御嶽山に登るのが夏休みの恒例となっていた。一番下の息子が初登山したのは、小三のときだったと思う。錫杖を鳴らし、〝六根清浄〟を唱えながら登る白装束の一団に驚き、「坊、がんばれ!」と励まされた息子は、六根清浄をまねながら必死に後を追って登ったものだった。
その年は、登山の途中で雲が空を覆い雨が降り出し、やがて雷が鳴り出した。あと三十分ほどで頂上に着くという所で、下山して来た人から、「この雷は山肌を走るから危険です。すぐに下りた方がいい」と諭された。霧で見えない頂上を恨めし気に眺め、来年もあるからと登山を諦めた。稲妻と雷鳴に怯えながら必死で下山した。濡れた岩石で足を滑らせ、悲鳴を上げて尻餅をつく子どもたち。雨の中では休憩を取る訳にもいかなかった。泥に汚れ、ずぶぬれになってようやく田の原の駐車場に到着し、全員の無事を喜び合った。震えながら食堂で喰ったあったかいラーメンの味が忘れられない。御嶽山は、我が家の家族一人ひとりにとって、夏休みの楽しい、懐かしい思い出が一杯詰まった山である。
《作者紹介》しまだ・たろう
日本民主主義文学会 会員、主な著作は「原発の空の下」(戯曲)
終末を在宅で 飯降かず
「もうだめだと分かっているのに、点滴のチューブにつながれて延命治療はしたくない」
「痛い、苦しいだけ和らげてもらえばいい」癌を発症する前から夫はそう言いつづけ「出来るだけ入院したくない、家にいたい」とも言った。
最初の発症から2年数ヶ月、体調の異変を感じ再発の疑いが現れたのは、昨年の夏の終わりだった。秋が過ぎ冬になると再発の肺癌は脳に転移、通院も困難になって再入院か在宅かという段になって、夫は迷わず在宅を選んだ。
病院から地域のケアマネージャーと開業医を紹介してもらった。介護の認定はこれからだが多分要介護1ぐらいだろうと、認定を見込んで居宅医療、介護をはじめることになりベッドや玄関の階段を設置、風呂とトイレの改装の見積もりもした。医師と看護師は交互に週一で来てくれる。病変があればいつでも呼んでくださいといってもらった。調剤薬局から薬も配達される、入れ歯の調子が悪いと言えば歯科医の往診もできた。電動カートもレンタルして正月にはこれを運転して初日の出も見に行った。驚くような速さでここまでの体制が進み、なんとかこれで過ごせるのではないかと思われた。
だが癌が脳へ転移するということは、予想を超える変化を見せた。たびかさなる転倒、転倒にともなう怪我、左手の麻痺、頑固な自己主張「これ以上ひとりでは診れない」とケアマネージャーさんと子ども達に来てもらい、救急車で入院することになった。
入院には夫自身も頷いて承知したが、かねがね言っていた「チューブに繋がれて死にたくない」ということはここで反故となり、おまけに身体拘束までされるようになった。
わたしは申し込んであった緩和ケアへの移動を催促した。入院七日目緩和ケアのへやへ移る。もう点滴のチューブはついていない、身体拘束もなく自由になったが、自ら動く力も小さくなっていた。「家につれて帰りたい」とわたしは緩和ケアの主治医に懇願して夫は退院することになった。
家にはまた、居宅医療の親切な開業医と優秀な訪問看護師が来てくれた。夫は退院の翌日遅くわたしや子どもに見守られて永遠のねむりについた。わたしは夫ののぞみをかなえてやれたのだろうか。
《作者紹介》いいぶり・かず
初日 小林しんじ
私の2016年から、2017へ年の橋渡しは、「初日」という詩からはじまりました。
この詩は、「みんなの詩集・夢ぽけっと」(2016年冬号水内喜久雄編集 )に掲載したものです。年賀状もこの詩です。この詩のように私は、毎年のしきたりとして「初日」を拝みに行きます。
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初 日
小林しんじ
いつからだろう
祈るようになったのは
夜明け前
白い息をはきながら
公園の丘に登ると
何組もの親子が
日の出の方を
じっと見つめている
寒いので
足を動かし
手を温めていると
喜びの声があがる
遠く御岳の
頂上付近から
わずかな光があふれ
太陽が顔を見せる
雲は真っ赤になり
地上も明るくなっていく
丘の中央では太鼓が激しく鳴り
獅子舞もはじまった
初日に向かって両手を合わせ
平和を祈っている
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この詩に出てくる「丘」というのは、名古屋市緑区にある高台の公園のことです。
作者が作品を書き、公表すると作品が逆に作者を縛るということがあります。詩で描く世界はあくまで虚構ですが、詩の言葉のどこかに事実が潜ませてあり、読者を引き込み、訴える力があるのは、その言葉の事実と隠された真実があるからだと思っています。
今年の新年も、その「丘」へ向かいました。
6時30分に目をさまし、日の出が午前7時だったので、急いで着替えて、車で向かいました。丘へ向かう人が白い息を吐きながら歩いています。丘には、もうたくさんの人。
500名以上の参拝者(見物人)で賑わっています。日の出前の御岳の方をじっと見詰めて息を殺しています。
その時、まん丸い太陽が少し出て来て、周りがいっぺんに明るくなり、雲があかね色にかわり、拍手がわきおこり、どよめきが広がりました。
恋人と二人できた若者が、よりそって、「初めて見たけど、感動した!」「太陽がおいしそう」「来年もいっしょに来よう!」と幸せそうに話しています。中には、シートの上に座り込んで、お酒を飲んでいる家族もいて、初日の力を感じとりました。
ハパとママによりそって来た子どもが、「帰りに喫茶店に寄ろうよ」と。「まだ空いて無いからダメ。」「お年玉ちょうだい」と歩いています。
あっちこっちから集まってきた、老若男女が太陽に照らされて顔が輝いていて、この日、この時間だけは、生活の苦労がにじみでない一時のように見えてきました。
多くの人は、何を祈ったのでしょうか。
私は、「平和でありますように!」と。決意をこめて祈ったのですが。
この日、日本全国で「初日」に祈った人が、「平和でありますように!」と拝んだとしたら、きっと、その力は、広がっていくのではないでしょうか。
トルコでは、新年を祝う店で、銃の乱射事件。多数の人が亡くなったというニュースが伝わってきました。世界は平和ではありません。日本も平和が危うくなっています。
私たちにできるささやかな「初日」への願いが、広く深くつながっていることを願っています。
紅白提灯 瀬峰 静弥
お盆になるとオガラをたいたり茄子を飾ったりする家が多いというが、それを知ったのは東三河に引っ越してからだった。僕の郷里岐阜では、お盆には墓石の対に紅白横縞の小提灯を飾る。各家各墓に一対の提灯、墓場はその一時期だけ盆踊り会場のような華やかさになる。
この風習は岐阜県美濃地方の一部だけのものらしい。
幼いころ、僕と叔母は祖母の言いつけで、よくお盆前に墓掃除と提灯飾りに行った。叔母は嫁いできたばかりで若くて、お姉ちゃんと呼ばされていた。
「お姉ちゃん、あそこのお墓だけ白い提灯やね。なんでなんやろか」
既に紅白提灯が飾られて賑やかしい墓場の一か所だけ、紅白でなく白一色の提灯を飾ってあるのを僕は見つけた。
「あれは初盆の家。今年どなたか亡くなったんやわ、あそこ」
叔母の答えに僕はがてんがてんした。
「なんか白い提灯って寂しくていややね、お姉ちゃん」
「あたしは嫌いやないわ。真っ白の提灯きれいやもの」
叔母はやさしく微笑んだ。
町場の大衆食堂から大百姓に嫁いで、厳格な祖母に仕えていた叔母はいつも隠れて泣いていた気がする。
幼かった僕は、母が病気になって入院してしまったので、母の在所に預けられていた。祖母と、母の弟にあたる叔父と、そこに嫁いできたばかりの叔母との暮らしだった。祖母と叔母はいつもギスギスしていて、いがみあってばかりいたのを、子どもながらによく覚えている。叔母は一人預けられていた僕の世話をやいてくれた。
「あれは塩辛い味付けで料理が下手や」
「たいもない嫁やなぁ」
「あの嫁はちょっとも挨拶せんな」
近所の女性たちが祖母を囲んで、叔母のことを罵りあっていても、よく庇ったものだった。
「お姉ちゃんは悪い嫁さんやないよ。いじめんといて」
所詮は子どもの発言だった。でも叔母はそんな僕にいつも優しくて、僕は叔母に甘えていた。
あれから三十年、祖母はせんに彼岸の人となり、今年は叔母が冥府へと旅立った。
この夏、一人残された叔父と、お盆前の暑い日の夕方、墓地に行った。紅白提灯に彩られた墓地のなか、うちの墓にだけ提灯ひとつ飾られていなかった。
「叔父さん、提灯あれへんやんか。買ってこよか」
僕が言うと、叔父は事もなげに言った。
「もう数日で盆も終わりやでまあええわ。面倒やし」
「そんなことあかんて」
のんきな叔父と花屋に行くと、紅白提灯と白い提灯が売られていた。白い提灯を買って、墓に飾った。叔父は初盆の家は白い提灯だという風習すら知らなかったらしいが、いざ提灯を飾ると、急に嬉しそうに中の蝋燭に点火していた。
「これで仏さんも喜んでくれるなぁ。それでも、白い提灯は寂し気やなぁ」
叔父がしみじみと言った。
紅白の提灯に混じって、うちの白い提灯はそこだけ強い光を放つかのように目立っていた。
「……お姉ちゃん、きれいやな、白い提灯」
僕は墓石に話しかけた。辺りは日も暮れて薄暗くなってきた。僕がいつか彼岸に渡るときには誰かが白い提灯を飾って呉れるのだろうかなどと思った。
華やかな紅白提灯、一寸寂し気な白い提灯、提灯に彩られる美しい岐阜のお盆がいとおしい。仲の悪かった祖母と叔母、泣いてばかりいた叔母も次第に強くなり、最後は祖母を泣かせるようにまでなった。祖母が長患いののち亡くなって、これで叔母の天下だと思ったのも束の間、数年後に叔母も亡くなってしまった。祖母も叔母ももう向こう側に渡ってしまったのだ。言い争うことだけを生き甲斐のようにして生きて、あっけなく。もっと楽しく生きたら良かったのに……などと思いつつ、彼岸でも仲違いしている祖母と叔母の様子をなんとなく想像してしまう。
真っ白な提灯をじっと見る。闇に浮かぶような鮮やかな明るさだ。祖母や叔母の御霊が提灯の灯りに宿っているような気がしてきて、僕はいつまでも暗闇に輝く光を見つめていた。
≪作者紹介≫
瀬峰静弥(せみね・しずや)
昭和54年岐阜県生まれ
日本民主主義文学会会員
名古屋民主文学読者会員
主な作品『砺波野の春風』『松葉牡丹』『ひととき』『ゆうたのこと』ほか